
和合 亮一さん(詩人)
井上先生の印象的な教えは
お別れのとき、「書いて書いて自分をつくっていくんだ」と話をされて。文学賞を獲るような作品は皆、堕落している、疑ってかかれ、と。ベストセラーになるな、賞の話が来たら断れ、なんのために書くんだ、売れるために書くんじゃない、自分のために書くんだ、書いて書いて自分をつくっていくんだ、分かったか――、って。で、みんなも、勢いよくハイって答え別れた。その後、癌が発覚し、先生はお亡くなりになってしまった。だから一度しかお会いしてないんですが、そうして別れたときのことが、いまだに自分の中にありますね。
3・11は南相馬に
あの震災があって、今まで自分がやってきたことが信じられなくなった……。それまで、現代詩を書いてきて、新聞や雑誌で「若手の代表」などと取り上げてもらったり、本を出したりもしてきた。読売新聞では時評者に選出され、「どれだけ詩の世界で期待されてるか分かりますか」とまで言われた。そうして築いてきた詩人としての全てを覆されたというか……。若気の至りか、40になり、読売新聞で、現代詩を語ることが多くなっていたんです。「詩とはこうだ」と気焔を上げる。批評する立場になって、そういう言い方をするようになっていたんですね。けど、一番分かっていなかったのが自分だったんだなァって凄く気づかされた。あそこで改めて自分が詩を書く意味を、大きな揺さぶりとともに問い直されましたね。

具体的にはどんな
それまでの創作活動がひどく脆弱だったことに気づいたんです。つまり、震災を経験して、僕たちは言葉を失った。そして、失ったとき、次にどう言葉を発していいか、詩人たちはその発し方が分からなかったんです。非常に貧しい中で私たちは詩を書いていたんだと、そのとき実感した。当時は、南相馬で暮らしていていて、街の様子が生徒たちを通じて逐一入ってくる。そういうことがまた一層の孤独を感じさせた。それらすべてをひっくるめて、詩を書こうと思ったのが、震災後の創作の始まりだった。それでTwitterに書き始めたんです。〈放射能が降っています静かな静かな夜です(『詩の礫』より)〉。だからあのときの詩は南相馬に密接に繋がっている。実際、教え子も亡くしているし、家庭訪問で会ったお母さんも亡くなっている。泣きながら生徒が電話をよこしてくることもあった。南相馬の避難が始まると、今度は物資の運搬が滞ることも起こった。その間、ずっと福島に留まって、言いようのない怒りと悲しみを感じていたんですね。とめどなく続く余震に脅かされながら、そういう全てを悶々とツイートしていった。だから、あの呟きは読み手を意識していない。普通、例えば新聞に書くときには、読者を意識して書くわけだけど、あのツイートに関しては、本当に誰のことも意識していなかった。それまでTwitterもやったことはなかったし、「誰も読んでない」という気持ちで始めた。それが、3カ月毎晩続けるうちに、だんだんと読んでくれる人がいるんだと気付いて……。後で詩の先輩たちに、それらしいこと書きやがって、などと言われましたが、全然ですよ(笑い)。そんなことを考える余裕すらなかったです。
